多賀直昌は中原宗乗と号し、金沢胡桃町に居を構え、加賀前田家より五千石を賜っていた。七代量之助自害により金森家が断絶したため、世襲によらず家元を継承することとなり、門人一同の推挙により家元を継承した。宗和流八代を継承するに及び、公務から退いて邸内に別荘を構えて隠居。専ら茶の湯に専念し、『拾玉抄』7巻、その他の秘伝書を編纂した。宗和流に於いては多賀直昌を流儀の中興の祖と位置付けている。文政12年6月2日歿、享年38歳。法名は武昌院一簇天貫居士。野田山大乗寺境内に眠る。
多賀直昌は中原宗乗と号し、金沢胡桃町に居を構え、加賀前田家より五千石を賜っていた。七代量之助自害により金森家が断絶したため、世襲によらず家元を継承することとなり、門人一同の推挙により家元を継承した。宗和流八代を継承するに及び、公務から退いて邸内に別荘を構えて隠居。専ら茶の湯に専念し、『拾玉抄』7巻、その他の秘伝書を編纂した。宗和流に於いては多賀直昌を流儀の中興の祖と位置付けている。文政12年6月2日歿、享年38歳。法名は武昌院一簇天貫居士。野田山大乗寺境内に眠る。